アンネの日記
アンネ・フランク 著
文春文庫 増補新訂版
第二次世界大戦時に、ドイツ秘密警察(ゲシュタポ)からの迫害を逃れて、隠居生活に入っていたユダヤ人のアンネ・フランクさんが描いていた日記です。
日記の内容は普段私たちが書く日記の内容と同じでした。今日会ったことや楽しかったことなど自由に書いていたイメージでした。日記自体は隠居生活より前から書かれており、隠居生活に入る様子も書かれていました。
第二次世界大戦時のドイツでは反ユダヤ主義でヒトラーによってユダヤ人狩りが行われていました。そのため、ユダヤ人は他の人と区別するために黄色い星の紋章のようなものをつけていました。
また、自転車はドイツに供出する必要があり、車は乗ってはいけないとされていました。
ユダヤ人専用の床屋や学校にしか行けず、買い物の午後3時から五時まで、夜8時から朝6時までは外出禁止でした。
映画館などの娯楽施設も入れなく、公共スポーツなどもできませんでした。
アンネは1929年6月12日にドイツ系のユダヤ人家庭の次女として生まれ、1933年に迫害を逃れて、オランダのアムステルダムに逃げ、1944年の7月から隠居生活に入っています。
日記は1942年6月12日から1944年8月1日まで書かれていました。
隠居生活は父親の事務所の3階に秘密の扉があり、その奥の部屋で家族と他の人も含め八人で暮らしていました。ちなみに、生き残ったのはアンネの父親のオットー・フランクさんだけです。
隠居生活時は外に一歩も出れなかったそうです。前もコロナの影響で巣篭もりが続いていましたがそれが2年近く続くと考えたら恐ろしいですね、、
隠居生活なのでやはりストレスが溜まるみたいで日記にも家庭の仲が悪くなっているなど書かれていました。
当時オランダはドイツに征服されており、国内でも連合軍とドイツ軍の激しい攻防が続いていました。戦争が激しくなると食料も減っていき苦しい生活を余儀なくされました。食料はいわゆる闇市場で買っていたそうです。
寝ている時も飛行機の音や銃声、砲撃の音などが鳴り響き、常に恐怖だったと言っていました。
しかし、アンネはこんな状況でも日記の中で「私は幸せだ」と言っていました。まさにポジティブ日記ですね。
1943年の日記にイタリアの降伏が書かれていて、アンネは戦争の状況もラジオで得た情報をもとに書いていました。
しかし、1944年8月4日に誰かの密告によりドイツ秘密警察に連行されてしまいました。9月6日にアウシュビッツに収容されてしまいました。
アウシュビッツには毒ガス室があり、ユダヤ人の大量虐殺が行われていました。
アンネは姉のマルゴーと共に10月末から別の収容所に移されました。
その収容所は、衛生状況が悪く、翌年の2月〜3月にかけてチフスが流行しました。姉のマルゴーとアンネはチフスによって亡くなってしまいました。
アンネとマルゴーは収容所近くの「遺体投棄穴」に入れられました。遺体を捨てる穴です。そんなひどい時代だったんです。
その収容所は、アンネの死後1ヶ月後にイギリス軍により解放されました。もう少し早ければアンネは助かったかもしれません。
父のオットー・フランクさんによって現在アンネのフランクは世界中で読まれています。戦争を風化させないためにも、アンネさんをよく理解するためにもぜひ読んでいただきたい一冊です。